Cobaringの若返る健康法を伝授!

伝統的な日本型食生活を腹八分目食べることで瘦せられるばかりか健康を維持することができる簡単で経済的な若返る健康法です。

ロスチャイルド家と日本

吉野敏明氏著【医療という嘘】から引用

幕末から昭和、諸外国からの勢いを増す

江戸幕府はキリスト教を隠れ蓑に植民地化しようとしていた欧米列強の介入を避けるためにキリスト教を禁じたのです。
特に、警戒していたのが英国のロスチャイルド家でした。


初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド(1744~1812年)は5人の息子をヨーロッパ各地に配属し、情報伝達体制を徹底させ、イギリスを任された三男のネイサン・ロスチャイルド(1777~1836年)が頭角を現した。

アヘン戦争とジャーディン・マセソン商会

当時、イギリスはインドでケシを栽培し、アヘンを清国に売ってお大儲けをしましたが、それをきっかけにアヘン戦争が勃発したのです。
アヘン貿易でロスチャイルド家と代理店契約を交わしていたのが、ジャーディン・マセソン商会です。
この代理店はスコットランド人のウィリアム・ジャーディンとジェームズ ・マセソンが1828年に設立した貿易会社でした。


ウィリアム・ジャーディンはもとっもと東インド会社の外科医でしたが、アヘン貿易が儲かるため、貿易商に鞍替えして暴利を貪ったのです。
ロスチャイルド家とウィリアム・ジャーディンと共に次に目をつけたのが日本でした。
鎖国をしていたようにみえた日本は植民地化を狙っていた欧米列強、ロスチャイルド家と付き合わないようにしていただけで、出島を通じて他の国と取り引きをしながら海外の情報を得ていたのです。

ペリー来航

ところが、アメリカ海軍提督ペリーが捕鯨目的のために、開国を迫り、日本は不平等な条約を受け入れて開国を余儀なくされたのです。

捕鯨のために開国を迫ったとはいえ、食用ではなく、石油の登場がまだであったため、欧米列強は燃料となる鯨油目当てに世界中の海で捕鯨していたのです。
しかし、乱獲によって大西洋で鯨が激減し、舞台は東太平洋から西太平洋へ移って行くが、長期航海時の燃料補給のため、日本に開国を迫ったのです。

狡賢い欧米

現在では捕鯨禁止を叫ぶ欧米ですが、ご都合主義が甚だしいのです。
彼らは明治政府の母港になった横浜を拠点に、伊藤博文らをロンドンに留学させる際に、長洲藩を支援したり、グラバー商会を通じて坂本龍馬の亀山社中(海援隊の前身)を支援したりするなど討幕派を後押ししたのです。
ところが、その一方で幕府に南北戦争で余った武器を提供し、内戦を煽り、自分達も利益を得ていたのです。
つまり、ジャーディン・マセソン商会は大英帝国と巨大財閥ロスチャイルド家の尖兵(敵状を探り、敵の攻撃を警戒する小部隊)として日本を買収する工作を行っていたのでした。
因みにジャーディン・マセソン商会の初期横浜支店長は第45代内閣総理大臣を務めた吉田茂の義父吉田健三でした


彼は政府相手に数々の取り引きを成功させ、3年後には辞職していました。
吉田健三の養子吉田茂が、軍人でも皇族でもないのに後に総理大臣になれたのもロスチャイルド家と繋がっていたからです。
総理就任後、第二次大戦後アメリカから30億ドルの借款をしましたが、ロスチャイルド家の親戚であるサッスーン財閥から借りたものです。
このように、幕末から昭和にかけてロスチャイルド家の影響下にあったのは明らかです。

富国強兵のため西洋医学が主流

開国によって外国勢力に負けない国のあり方を富国強兵策に求めたのです。
それにともない、それまでの免許制度のない漢方医を中心とする医療から、戦争に勝つための医学、軍事医学への大転換がはかられていきました。
1868(明治元)年3月、新政府は「西洋医学採用の被仰出書(おおせいだされしょ)」により西洋医学を採用する方針を打ち出しました。
1874(明治7)年には医師の免許制が始まり、76年には漢方医を志す医師も西洋医学を学ぶことを余儀なくされたのです。

県立病院と西洋医学が全国に

廃藩置県によって県立病院に変わり、西洋医学(アロパシー医学)が全国に導入されていったのです。
こうしてみると開国によってロックフェラー医学に乗っ取られた感がありますが、富国強兵に伴う強い軍隊の下支えとして、容認せざるを得なかった側面もあります。
一方では、明治天皇が生活困窮者を救済する済生会病院を創設した。(1911(明治44)年)
明治天皇はさらに当時の内閣総理大臣桂太郎とともに私財と寄付で恩賜財団済生会を創立し、恵まれない人々のために施薬救済療による済生(=生命の救済)の道を広めることに尽力しました。
ところがそれ以外は主に軍医が西洋医学の教育を帝国大学と旧六医大※で行っていたのです。
※千葉大学、岡山大学、新潟大学、長崎大学、金沢大学、熊本大学
1872(明治5)年に文部省内に医務課設置されました。
1875(明治ま8)年に内務省衛生局と社会局を分離させて厚生省の前身ができたのです。

丈夫な兵隊を作るために設置された「厚生省」

明治の日本は日清・日露戦争に突入するが、その戦費となる国債を買ったのがロスチャイルド家の代理人ジェイコブ・シフというユダヤ人でした。


とはいえロンドン・アメリカのロスチャイルド家が日本に投資する一方で、パリのロスチャイルド家はロシアに大量の投資をし、両方で儲けるのが彼らの常套手段でした。


日本はロシアに勝利したものの、日露戦争のときに発行された外貨は、すべて日本の負担となり長きに亘り日本を苦しめました。
しかも1877(明治10)年代にコレラ、日露戦争後のスペイン風邪、日中戦争や大平洋戦争で農村部が疲弊し国民の健康状態の悪化などで体が丈夫で兵士に適するものが激減しました。


そこで当時の陸軍大臣寺内寿一の提案で陸軍省医務局長の小泉親彦が動き、1938(昭和13)年「厚生省」を設立した。
それは近衛文麿内閣の時で陸軍との密約の噂があったのです。
1937(昭和12)年、虚構橋事件が日中間の全面戦争へと拡大していく中で兵士獲得のための国民の体力向上を望んでいたからです。
やがて「国家総動員法」により、国民総動員で戦争遂行に制限し、厚生省は兵隊の召集に力を注いだ。
1940(昭和15)年には国民体力法が制定され、全国には保健所が整備されていった。
終戦後、陸軍省と海軍省が廃止され、軍人の引き揚げ事業が厚生省に移管されたなど戦時体制の産物であることが窺われる。
※元来兵隊確保のために作られ、一般国民の健康増進をはかるために設置されたわけではなかったのです。

まとめ

厚生省もWHOも人類の健康のために存在しているわけではないという残念な事実を知らなければなりません。