近代西洋医学の波
吉野敏明氏の「医療という嘘」より引用
一神教のヨーロッパの国々では人体解剖が禁止されていた
西洋では中世まで医学は「内化学」で、内臓を対象とし、手術をしない診療と研究の分野でした。
その理由はユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教の国々では人体解剖が禁止されていたからです。
延いては医者は解剖をせずに、理容師(床屋医者・理容外科医者など)が行った解剖内容を聞きながら、既存の研究所と見比べるという状況でした。
当時の医学は麻酔や治療法などの技術もなく経験知に基づいて内科的な処置が行われたのです。
ところが12~16世紀以降、戦争によって手足を負傷する人々が増え、外科の治療をする外科学が始まったのです。
それまでは焼灼止血法で傷口を塞ぐ方法が一般的でしたが、やがてフランス王室の専属医師であるアンブロワーズ・パレの血管結紮法(けっかんけっさつほう)が用いられるようになり、「近代外科学の祖」として讃えられたのです。
こうして、内科医の上に外科医が位置するようになり、17世紀にはその上に、口腔外科が位置するという序列をピエール・フォシャールというフランス人が作りました。
当時は大航海時代で、壊血病という口腔疾患が流行っていたこともあり、フォシャールが口腔の状態が全身に影響することを最初に主張し、現代の口腔外科の発展へ繋がりました。
また、16~18世紀にかけて解剖学が進んだことから、近代西洋医学が発展したのです。
「近代解剖学の父」と呼ばれるアンドレアス・ヴェサリウスが1543年に『ファブリカ(邦題『人体の構造についての七つの書』)』を著しました。
その後、イギリスの外科医ジョン・ハンターは冷蔵庫がない時代であったため、動物による比較解剖学を構築し、多くの弟子を育て、近代医学の発展に貢献しました。
19世紀に入ると、エドワード・ジェンナーが天然痘の予防において種痘法を開発しました。
ジェンナーの師匠が感染のメカニズムを知るために、自らの体に梅毒と淋病の膿を摂取し、絶命したことから、ワクチンを接種する種痘法を編み出したのです。
歯科と戦争によって発展していった麻酔学
19世紀にはアメリカ人歯科医ホーレス・ウェルズによって「麻酔」が発見された。
無麻酔の時代は痛みで死者も出るほどでした。
ウェルズは「笑気ガス」と呼ばれる亜酸化窒素による「笑気(亜酸化窒素)麻酔」を発明したのです。
ところがそれが効き過ぎると死んでしまうことからモルヒネの需要が高まりました。
モルヒネはドイツの薬学者フリードリヒ・ゼルチュルナーの発見によるもので兵隊の外傷の苦痛を緩和するのに貢献した。
消毒や麻酔による戦傷医療が発展し、西洋医学が軍事医学と呼ばれるようになりました。
戦後もモルヒネは歯科の抜歯鎮痛剤として使われ続けました。
つまり、麻酔学は歯科と戦争によって発展したのです。
このころ、ロベルト・コッホとルイ・パスツールによって細菌学が創始され、コレラなどの流行で公衆衛生学などもヨーロッパ全体に広がったていったのです。こうして、それまでの宗教や魔術による治療から、解剖ベースの近代医学へと発展したのです。近代医学は生理学、薬理学、病理学、生化学、衛生学、細菌学などの基礎医学が確立し、準じて内科外科、歯科、眼科、産婦人科整形外科、小児科、精神科など多くの診療科が誕生しました。
西洋医学は昔の伝統医学とは異なり、即物的に、治療することを基本としてきたので、個人主体の医療から医者依存型の医療へと変わっていったのです。
つまり、近代医学は科学的な理論と高度な医療技術を生み出した半面、古来上医によって行われてきた自然の一部としての人間を倫理的に扱う巫術や仁術などは全く考慮されなくなったのです。
明治時代までは「口中医」が最もレベルの高い医者
日本では、大化の改新(645~705年)に始まる国家体制の整備に伴って、唐を模倣して医療制度も見直され、「医疾令」が定められました。
中央には典薬寮や内薬司、地方には国学が設けられ、国家による医師の養成が行われたのです。
医生はそれぞれの専門分野に分かれて宮中医師(官医)として全国に配置されました。
特に「耳目口歯(じもくこうし)」という専門分野は歯科が独立してあるのではなく耳、目、口、歯は一つの臓器と見なしていたことから、一つの科として専門医が診療を行いました。
これが平安期には「口歯科」となり、安土桃山時代には「口中科」となり、明治時代まで口中科の専門医、口中医が最もレベルの高い医者と見なされていました。
その理由は、栄養失調や感染症などを防ぐためには、口中の状態をよく診て適切な処置と未病治療のできる上医だったからです。
そのため、江戸時代までは、幕府や朝廷の中に代々口科を専門とする医者が侍医として従事していたのです。
一方、下級武士や一般庶民の間でも予防のためのお歯黒や房楊枝(ふさようじ)を使った歯磨き習慣が定着していったのです。
歯の不調については七部門の医師たちが薬の処方や治療に当たっていたのです。
中でも口中医の地位が高かったのは、当時の為政者たちが口の中を正常に保つことの重要性を十分に知っていたからです。
ところが、江戸中期に蘭学が入って来た頃から、それまでの日本の医学は大きく変わっていきました。
ドイツ医学の導入
1774年に『解体新書』を翻訳した杉田玄白らが、当時は蘭学と呼ばれた西洋医学を導入したが、実際はこの本のもとはドイツ人のハン・アダム・クルムスが書いた『解剖図譜(かいぼうずふ)』でドイツ医学が導入されたのです。
それにより、日本の医学・医療は、それまでの東洋医学の概念が完全に切り離されたのでした。
1872(明治5)年、福沢諭吉の甥・小幡英之助がアメリカ人歯科医セント・ジョージ・エリオットに師事したのがきっかけでそれまでの口中科が消え「歯学」へと変貌を遂げたのです。
まとめ
東洋医学など古臭く、まして中国二千年の歴史など現代に通用するはずがないと語った著名な人がいましたが、未病のうちに病を治してしまう伝統医学こそ、今の日本人には必要なのではないでしょうか。